大食いの落とし穴

2002年4月27日
TV番組の真似をして給食時にパン大食いに挑んだ中学生が死亡したニュース。
15歳の少女を妊娠させた上自宅で出産させ、窒息死した胎児をポリ袋に包んで自宅のカラーボックスに放置、更に少女も見殺しにした20歳の大学生のニュースにも気分の悪さに嘔吐しそうになったけれど、こういうニュースも余りに悲しい。

ものを沢山食べるという事が悪いのでは決して無い。私も、一般の女子平均に比べたらよく食べる方だと思う。作ってくれた料理は為るべく残さないのが礼儀だと思っている。
けれど、フードファイトなどの番組を観た後(読後感ならぬ観後感?)は、必ず気分が少し悪いような気がしていた。何故だろうと考えたら、「人間の胃袋の許容量」を見せ付けるという事以外に人の心に訴えるものが何も無いからという事実に気付いた。
こういった番組は、飽食とモノに溢れ、必要以上の商業主義的快楽を追求する先進国ならではのものではないだろうか。

大食いに挑戦する彼等は確かに凄いのかも知れない。何にしろ人以上に秀でる為には並々ならぬ努力を必要とする。何度も挑戦を重ねる中で己の限界を知り、更にそこから勝負をかけていかねばならない。

それでも、と思う。それが「大食い」である必要があったのか、と。

「食べる」という行為は己の生きる為、快楽の為にある筈だ。少なくとも私はそう思う。
自分の身体に必要なだけのものを食べなければ、つまり必要十分な栄養素を体内に摂取しなければ人間は死ぬ。
それは当り前の様だが、私達の想像以上に多くの、当り前の事が当り前に出来ない国の人々が居る。

そう考えるにつけ、「食べる」という基本的行為は日々の食事を心から感謝し、喜びながら、楽しんで行うという人間の本来的な義務があるのではないかと思ってしまうのだ。

ところが大食いに挑む人々を見ていると、ただただ苦しそうにしているだけ。決して楽しんでいる、喜んでいる、という風には見えない。だから何だか、悲しくなってしまうのだ。

真似しようとしている人や子供達は、大食いという行為が手軽に出来て何だか面白そうで、無条件に「凄い」と言われるからやってみようと思うんだろう。けれどそれによってどういう効果が生じるのか、それが本当に自分にとって必要な行為なのかどうか。くさい事言っちゃえばそう、そこに「愛」があるのか否か。

行動を起こす前に、考えて欲しいと思った。

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